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【同期座談会】社会人11年目、文科省の「中」と「外」でのキャリアと成長

採用活動で学生の皆さんと接している中で、こんな声を聞くことがあります。

「入省10年目くらいまでにどんな仕事をするの?」
「若手の頃にどう成長できるの?」
「文科省を辞めた人の話も聞いてみたい」
「文科省の良いところも、課題も、包み隠さず聞いてみたい」

今回はそんな声にお応えして、社会人11年目、総合職技術系の同期3人にインタビューしました。

文科省を辞めて民間企業へ転職した名倉勝さん、文科省から地方自治体へ出向中の森祐介さん、出向先から文科省に戻った鈴木悟司さん。

文科省の「中」と「外」でそれぞれのキャリアパスを歩む3人に、これまでの仕事と成長、入省動機や文科省への今の思いを、包み隠さず聞きました

そして、人生をかけて就職先を選ぶ皆さんの期待に応えるべく、ちょっと盛りだくさんですが、私たちも今回思い切って記事にまとめました。
それでは以下、お楽しみください。

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【左上】名倉勝(文科省を退職し、現在CIC Japan)【左下】森祐介(文科省よりつくば市へ出向中)【右上】鈴木悟司(文科省海洋地球課)【右下】梶原裕太(聞き手。文科省調査企画課)


文科省でも転職先でも、科学技術を世の中に活かす仕事を追求し続ける(名倉)


ー梶原
 入省4年目の梶原です。皆さん本日はよろしくお願いします。
就職を考えている皆さんに参考になるお話を聞ければと思いますし、なにより先輩の皆さんのキャリアを私自身も参考にできればと思います。
では早速ですが、皆さんの自己紹介も兼ねて、これまでのキャリアパスと、今どんな仕事をしているか、お伺いできますか。

森 我々3人は、今で言う総合職技術系として、2011年に文科省に入省しました。私は、それまでは博士課程で合成生物学の研究をしていました。その後、研究者としてではなく、日本として研究をどう進めていくことで社会に貢献できるのかといった行政の分野に関心が向き、文科省に入省しました。

入省してからは、文科省や内閣府で、科学技術政策の全体の戦略や、再生医療などのライフサイエンス分野、さらにTPPなどの経済連携協定の交渉や国連の人権条約の対応、日中韓の国際協力などの国際業務にも携わってきました。

留学から帰国後、2019年からは、つくば市に出向して、政策イノベーション部長として仕事をしています。この部は、市全体の経営戦略立案を担う部署ですが、それ以外にもスマートシティやデータの利活用、スタートアップなどに力を入れて取り組んでいるところです。

名倉 私は、核融合工学の分野で博士課程を修了後、文科省に2011年に入省しました。以降、独立行政法人改革や原子力規制組織の改革産学連携・イノベーション政策大学発ベンチャー政策に携わりました。

そういったイノベーションやスタートアップに関する分野をもっと深く勉強したいと思い、MITに留学して2年間、イノベーションが産まれる環境づくりやテクノロジーをどのようにビジネスとしていくかなど、ビジネススクールとエンジニアリングスクールのジョイントプログラムで勉強していました。

その後、文科省を辞める決断をして、以降は、経営コンサルティングやベンチャーキャピタルに勤め、どうテクノロジーを世の中に活かしていくのか、新しい産業を創っていくのか、という仕事にずっと携わっています。

現在働いているCIC(ケンブリッジイノベーションセンター)は、マサチューセッツ州ケンブリッジ、まさにMITの隣で生まれた組織であり、私自身が2016年ごろから、日本進出を支援していました。そのCICの東京の拠点が2020年にできる段階に至ったので、私もCIC Tokyoに移り、現在のディレクターというポジションにいます。

ここでは、まさに日本のイノベーションエコシステム(生態系)を創る仕事をしています。つまりCICとイノベーションに関わるプレーヤー、それこそベンチャーキャピタルであったり、政府機関であったり、大学であったり、あるいは大企業のオープンイノベーション部門であったり、さまざまなプレーヤーとのアライアンス関係を築いています。そして、様々なイベントを企画して多くの方にCICを知ってもらいつつ、イノベーションエコシステムのステークホルダーを繋げていて、エコシステムの”コネクティビティ”を高めるという仕事をしています。

つまり、ボストンやシリコンバレーに存在するような関係者同士のネットワーク・コミュニティを醸成し、日本の科学技術の力がしっかり活かされ、イノベーションが起きていくような環境づくりに取り組んでいます。

ー鈴木 お二人は博士課程を出て博士号も取られてからの入省ですが、私は大学院の修士まで分子生物学・神経化学を学んだ後、入省しました。

文科省に入ってはじめの4年で、東日本大震災後における文科省の組織・定員の見直し・強化に関する仕事や、科学技術イノベーション政策に関わる他府省との連絡調整の仕事、社会ニーズに沿った新たな高等教育制度づくりに関する仕事に携わりました。

なお、余談ですが、文科省は総合職技術系で入っても、教育系の部署に異動し、幅広い経験をさせてもらうことが多々あります。まさに今、梶原さんが総合教育政策局で教育分野の調査を担当されているのと同じですね。

その後、アメリカに2年留学し、帰国後は内閣官房・内閣府の地方創生部局に出向しました。そこでは、東京一極集中の是正に向け、魅力的な地方大学づくりとそれによる地方への若者の定着を目指す、新たな事業を立ち上げました。

2019年から文科省に戻り、現在は海洋地球課で、「海洋大国」である日本の海洋・深海の観測研究やその成果の活用を政策的に推進する仕事をしています。

また、最近は北極が気候変動や北極海航路の利用などの観点で注目されているのですが、観測データの取得など科学研究を更に後押しするため、国際研究プラットフォームとしての研究船の建造計画を進めたり、「北極科学大臣会合」という北極研究を担当する大臣などが集まる国際会議を、アジアで初めて東京で開催する準備(※4月のインタビュー時点。日本はアイスランドとの共催で、同会議を5月8、9日に開催した)を進めたりしているところです。

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海洋研究開発機構(JAMSTEC)の研究船「新青丸」の前で(鈴木:左)


新たな「知」を切り開く研究者を支える仕事をしたい(森)

ー梶原 ありがとうございます。皆さん、入省してからこれまで様々なキャリアを歩んできたということですね。その原点として、そもそも皆さんは、どんな思いやきっかけがあって入省したのでしょうか

ー森 大学院にいるとき、研究している先生やポスドクの先輩たちの姿を見てきて、「いやすごいな」と。新たな「知」で教科書を書き換えていく、そんな意識で研究に打ち込む姿を非常に尊敬してきたんです。

でもそういう方たちが一方で、例えば教授であれば、本来コミットしてもらった方がいい研究だけでなく色んな学内の事務などに追われている、あるいはポスドクであれば、将来の就職先を案じたり、経済的な悩みを抱えていたりする。さらには非常に優秀な修士の学生が、「博士課程に行くと就職先がもう無くなるので、私は行きません」と言ったり…。

そういうことを何回か目の当たりにしてきて、「これはもったいなさすぎるなぁ」と思ったんですよね。

自分も研究で知を更新していくことに貢献したい気持ちもあったんですが、それよりも、研究をしている人たちがどうやってのびのびと自由に研究をしてもらえるかという環境整備、あるいはどういう分野に日本として注力していくことで国際競争力が高まるか、という方に関心が向いていって、そういったことをやれる仕事ってあるのかなということを考えていました。

その時に、ある国際会議で、今の科政研所長の菱山(豊)さんが当時、日本のライフサイエンス政策について、生命倫理の観点等を踏まえながら、網羅的かつ先進的な発表をしているのを聞きました。文科省職員はこういう仕事をしているのかと、ますます関心が出て、就職につながりました。こういった偉大な文科省の先輩が後押しをしてくれたということはあります。

もう1つは、大学院の時に、科学教育やサイエンスアートの活動もしていました。本来、科学に関心を持ちうる人は世の中にたくさんいるんですけれども、今は持っていないような人たち、つまり潜在的な関心層をどうやって掘り起こして、関心を向けさせるかというときに、アートはツールの1つでしょう、ということで、芸術大学の友達と組んで、展覧会をやったりしていました。文科省を就職先として考えた時に、科学技術だけじゃなくて、教育や文化、スポーツも担っているというのは魅力的でした。

ー名倉 私の場合は、専門の核融合工学に直結しています。核融合や、宇宙、海洋といった分野はビックプロジェクトにより研究開発が進められており、やはり国の果たす役割が大きいのです。そのため、国のマネジメントや政策の方向性によって、研究開発が大きく左右されますし、研究開発の予算が付く、付かないも、国の対応によって変わってきます。

そういう意味で、核融合の技術は、時間がかかるものの素晴らしい技術の集大成なのですが、研究者一人一人が頑張るだけでなく、そもそも全体として、この核融合技術を世の中にどう活かしていくのか、社会としてこういった核融合技術にどう付き合っていくのかを考えなきゃいけないというのが、プレーヤーとして研究を続けていくのではなくて、政策を進める側の文科省に入ろうと思ったきっかけです。

それと、森さんと同じように博士人材のキャリアパスなど、研究人材の課題にも関心がありました。大学や研究機関だけでなく、国や大企業などでも博士人材をはじめとした科学技術人材の力を活用していくことが重要です。そして私自身、博士人材として、省庁の中で仕事をしてその中を見てみたいという気持ちもありました。

ー鈴木 お二人と重なるところもあるのですが、特に、同じライフサイエンス分野の森さんの話はまさに私も感じていたことでした。自分とは比べ物にならないくらい非常に優秀な先輩たちが、やはりポストや研究費を確保するのに苦しんだりするのを目の当たりにして、この国全体にとってこれは損失なのではないか、と。

さらに私が文科省に入る1つのきっかけになったのが、当時の「事業仕分け」です。メディアでセンセーショナルに取り上げられたところもありますが、科学技術政策の必要性や、研究開発の費用対効果というのが、世の中で大きく問われた時代だったと思うんですよね。

私は当時、修士の学生として、自分の興味のあった基礎研究に打ち込んでいたのですが、その環境は決して当たり前のものではないという、それこそ当たり前のことに気づきました。それをきっかけに文科省は教育政策だけでなく科学技術政策もやっていて、基礎研究の振興や若手人材の支援などの仕事もしているんだということを知って、興味を持ったのがきっかけです。


文科省だけの視点だけではなく、国全体の視点で地方創生の課題に挑む(鈴木)


ー梶原
 研究をプレーヤーとして進めるのではなく、政策で支えていく、というところが皆さん共通しているわけですね。そうした思いを持たれて入省した後、特に若手(係員~係長)の頃に、印象に残っている仕事はありますか

ー名倉 2つ話しますと、1つ目は原子力規制庁(※環境省の外局)の立ち上げの仕事です。国の原子力行政に大きな注目が集まっている中で、入省2年目で、原子力規制の新たな組織づくりに携わりました。

ここでは、国の組織がどうできていくのか、つまりどのような法令に基づいて、どのような予算の付き方がして、どのように形作られているのかを学びましたし、組織としての新たなルールづくりをしていくことはものすごく勉強になりました。

正直大変な仕事だったのですが、今振り返ってみると、本当に歴史上、あのタイミングでしかあの仕事はできなかったと思っています。日本の原子力規制の転換点にいて、そこで自分が手を動かしたということは、本当にかけがえのないことだったと思います。

2つ目は、文科省の産業連携・地域支援課の経験で、大学発ベンチャーの支援プログラムの担当係長として、自分で提案して起業家教育プログラムを作ったことです。自分が「これが日本に必要だ」と課内で提案して、そしたら上司も認めてくれて、予算をとるぞということになって、それが、当時の「EDGE」というプログラムなんですけど、それがどんどん受け継がれ、「EDGE-NEXT」になって、今は「EDGE-NEXT COSMOS」と進化していると聞いています。

本当に自分が必要だと思って、周りの方の理解を得られれば、そういった新しいことができる、自分が携わった事業が7年続いていて、非常に感慨深いです。

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産業連携・地域支援課で一緒に働いた皆さんと(名倉:後列右)

ー鈴木 私の印象に残った仕事としては、係長級での最後の仕事だったのですが、4年前から2年前にかけて内閣府で担当した地方創生の仕事を取り上げたいと思います。

東京一極集中は、日本が抱える非常に大きな課題の1つです。今はコロナ禍で若干状況は変わっていますが、毎年約12万人が東京圏へ転入超過していて、その大半を若者が占めている。これを地方から見れば、進学時や就職時に若者が大量に流出していて、この15年で地方の若者が約3割減っています。この国全体の将来を考える上で、東京一極集中をいかに是正していくか、地方への新しい人の流れをつくるか、は非常に重要な課題です。

そこで、地方自治体と地方大学、地域の産業界の3者が一体となり、魅力的な地方大学をつくり、同時に競争力のある地域の産業を伸ばすことにより、若者が学び、働ける地域づくりを目指す新たな制度を立ち上げました。

延べ60くらいの自治体や大学から毎日のように話を聞いたり相談を受けたりしながら、あるいは各地に実際に足を運んで現地を見て、どうすれば質の高い支援ができるか、また国の支援に依存しすぎず地域の将来的な自立を促せるかをイチから考えて、新たな法律に基づく地方への財政支援制度を作りました。

最終的には、例えば島根県の特殊金属産業を強化するために島根大学に世界レベルの研究教育拠点を新設するプロジェクトや、ハウス栽培の自動化により若者にとって魅力ある農業に変えていく高知県のプロジェクトなど、当時7つのプロジェクト(※現在は9プロジェクトに拡大)を選定し、今でも継続的に支援をしています。

文科省が担う、教育政策や科学技術政策の視点だけでなく、地域産業の競争力強化や、質の高い雇用創出、持続可能な地域づくりという視点も含めて、国全体でどうすれば東京一極集中の是正につなげられるだろうか、ということを本当に色んな方と議論しながら政策を作っていったというのは、自分にとって得難い経験だったと思います。

ー森 印象に残った仕事として、2つ挙げようと思います。1つは入省2、3年目にライフサイエンス課で、再生医療関係の研究開発プロジェクトの策定や、新たな計画を作った仕事です。再生医療関係のプロジェクトの、予算の倍増や期間の長期化を財務省にも粘り強く交渉しました。

そこで思い出深かったのは、3人のチームで仕事をしたことですね。1人は阪大の循環器内科のお医者さんで文科省へ出向してきてもらっていた方、その人が専門官として上司で、私が係長席に座っていて、そして川崎市から行政調査員で出向していただいていた方、その3人でした。当時、毎日遅くまで仕事をしながら、再生医療の次年度以降の計画を必死で作りながら、さらに今の事業の執行やサイトビジット、シンポジウムなどの業務をしていました。

それらに加えて、山中伸弥先生や髙橋政代先生など、世界的な研究者の先生方と日々コミュニケーションをとりながら、次の戦略を議論していったことは非常にやりがいがあり、かつ思い出に残っています。そうこうしている間に山中先生がノーベル賞を取られ、ひっきりなしにマスコミから電話がかかってきたりしながらも、2013年度からの新たなプロジェクトの立ち上げに成功しました。

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お世話になった山中伸弥先生と(森)

もう1つは、国際課にいた時に担当した、TPPや、日-EU EPAなどの経済連携協定の交渉です。当時「国立大学や国立研究開発法人は政府が直轄する国有企業である」という整理をされるかどうかで、非常に問題になりそうでした。

国有企業になると、例えば財務関係の様々な情報を公開しないといけない、取引はこういうやり方でやらないといけないとか、様々な縛りが出てきます。今でさえ多忙な中で、研究機関に対してさらに負担を課すというのはあり得ないと考え、TPPの交渉にも自分で行って、条文の解釈を他国に確認したり、その解釈を明記してもらったりというのを地道に積み上げて、国有企業ではないというのをはっきりさせたというのは、交渉の舞台裏で貢献できたなと思っています。

国立大学の政府調達ルールなど課題はまだあり、いつかはまたチャレンジしたいと思っていますが、国際交渉で日本の研究力に影響を与えられる仕事もあるということは、非常に印象深かったです。


留学で得た学びとネットワークを、今の仕事に最大限活かす(森)

ー梶原 ここまで、仕事の話を中心に聞きましたが、皆さんは同じ時期に留学に行っていたと伺いました。留学ではどのようなことを学ばれましたか

ー鈴木 たまたま3人とも同じタイミングだったんですが、2015年から2年間留学しました。人事院の長期在外研究員制度という、要は2年間海外の大学院に留学して修士号を取るという制度があり、それに手を上げて留学しました。

名倉さんと森さんはアメリカ東海岸のマサチューセッツ州ボストンに行ったのですが、私は西海岸のカリフォルニア州へ行き、カリフォルニア大学バークレー校のゴールドマンスクールという公共政策大学院で2年間学びました。

公共政策学というのはまさに、政策を立案し、評価し、実行していくことに関する理論と実践からなる学問です。理論面では、ミクロ経済学や統計学、計量経済学など、定量的に政策立案・評価をするいわゆるEBPM(Evidence-Based Policy Making)に関する科目に加えて、政治学やリーダーシップ、交渉術のような、企画した政策を現実の政治情勢の中でいかに通していくかに必要なスキルを学びました。

この大学院は、こうした教室で学んだ理論を、実社会での課題解決につなげていくことを重視していて、私の場合はクラスメイト3人とチームを組んで、南米コロンビアの教育省から依頼を受けて、国の教育制度改革のための提言をしました。教育の専門家や現地の先生など含めて、色んな方にインタビューしたり、いくつかの改革案の比較分析をしたりして、最後に提言をまとめ、教育大臣にプレゼンしたのが印象に残っています。

留学で学んだことが何に生きたか、ですが、私の今の仕事でいうと、「北極域研究船」という新たな研究船の建造プロジェクトをあげたいと思います。これは335億円かかる大型の国際研究プラットフォームなんですが、建造を決定する前に、その利活用方策や費用対効果を事前に検証することが財務省との関係でも必要でした。

「なぜ日本が遠く離れた北極用の研究船を作らねばならないのか」「そこに税金を投入する効果はあるのか」、これを客観的に示していく必要がある中で、留学中に学んだミクロ経済学や費用便益分析に関する知識やスキルを最大限活かせたと思っています。有識者の先生方の意見も踏まえて分析の報告書をまとめ、最終的には財務省にも理解いただいて、それまで4、5年ほど文科省がずっと検討してきた北極域研究船の建造に、昨年末に政府としてGOサインを出せた。そこに貢献できたこと、留学で学んだことを活かせたことが嬉しかったですね。

ほかにも、これはすごく精神的・抽象的な話になるのですが、アメリカに行くと、自分はアジア系のマイノリティになる訳ですね。英語も流暢とはいえない外国人になる訳です。

バークレーはアメリカで最もリベラルで融和的な地域の1つであり、特に差別された経験がある訳ではないのですが、自分が異国の地で「マイノリティ」でいることの、漠然とした疎外感や不安感は日本にいては決して得られなかったと思います。そういった、自分をこれまでと全く異なる環境に身を置いて肌で感じた経験は、今でも生きていると思います。

ー名倉 私も留学で得た経験はフル活用しています。経験だけではなく留学で得た人的ネットワークやリソースも活用しています。留学を通じて得たものを具体的に4つ挙げたいと思います。

まず1つ目に、そもそも今の勤務先のCICは留学先で出会った企業です。CICはボストン周辺で非常に大きな役割を果たしていて、大学の横にあり、様々なスタートアップや起業家、研究者が出入りし、まさにイノベーションエコシステムが出来ているところなんですよね。それを「これを東京でも実現したいな」と思ったのが今のキャリアを決断した1つの理由です。

2つ目は、留学の期間中は仕事から離れて自由に勉強していいので、自分が必要だと思ったことは相当勉強しました。公共政策やイノベーション戦略のような大所高所のものから、企業のファイナンスや経営戦略、エネルギー工学、材料工学、化学工学の授業も取りました。ほとんどのアメリカの大学はそうだと思うんですが、自分が学びたいという意欲さえあれば、相当広く学ぶチャンスはあって、特にボストンはそういったチャンスに溢れています。

大学のカリキュラムで正規にとれるものもそうですし、それ以外の教育的なイベントも数多くあり、さらに他の大学の授業にも潜り込ませてくれと熱意を持って言えば大体潜り込ませてくれたりします。そうした環境に身を置くことは非常にためになりました。

3つ目は、アメリカの最新の研究環境だとか、第一線の研究者と直接触れ合えたのはとても大きな価値がありました。と言っても、実は日本の研究者とあまり変わらない部分もあるということも実感しています。例えば、MITでもポスドクは一生懸命苦しんで実験したり、機器のメンテに時間を費やしているポスドクがいたりだとか。その一方で、学生は学生で将来に希望と不安を抱えつつも研究をしていたりとか、日本と変わらない部分が多くありました。その一方で全体のマネジメントがうまく回る仕組みや、研究が社会で占める役割、一般の社会の人たちが研究をどう思っているかに違いを感じました。そういう意味で研究機関がどうあるべきなのか、ということを考える大きなきっかけになりました。

4つ目は人的ネットワークです。日本人とのネットワークも日本人以外とのネットワークとも、今もとても生きています。ボストン日本人研究者交流会というボストン地域の研究者ネットワークの幹事をやって、色んな人とも知り合いになれました。それが今の仕事の中で、人を紹介してもらったりして役に立つことも多いです。

あとは海外の方とのネットワークですが、その時に知り合った方から、仕事を一緒にできないかといった話もよくあったりするので、そういう意味で全世界の人が集まるボストン、アメリカという地で濃密な2年間を過ごしたというのは、文科省の中だけでは得られないようなネットワークを得られたと思います。

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留学中の冬休みに、ニューヨークにて再会
(名倉:左上、森:右下、鈴木:左下)

ー森 私は名倉さんと同じマサチューセッツ州で、2年間で1年ずつ、2つの大学院に留学しました。

1つ目がハーバードケネディスクールという行政の学校で、行政学を学びました。学んだ中身としては、リーダーシップ論や交渉術とか、組織マネジメントとか、行動経済学といったようなものですね。これは1年間で終わるプログラムだったので、2年目にハーバードメディカルスクール、日本で言うと医学部なんですけど、生命倫理学を学ぶ1年間の修士プログラムに入りました。

鈴木さんの話とも関連しますが、一番学んだことは「多様性」です。目から鱗のことが何回も本当にありました

例えば、ケネディスクールのリーダーシップの授業中、「ボーダー(border)」という言葉が出てきたんです。その先生はそれを、「自分と他者との間の境界線」や「自分の壁を超えるための境界線」という意味で使ったんですね。すると、僕の隣に座っていたアフリカ出身の女性が急に泣き出したんですよ。聞くと「自分は”border”という言葉を聞くと堪えられない」と。アフリカの国は強制的に先進国から直線的に線引きされ、つまりは文化や民族を無視する形で国境(border)が引かれ、その結果同じものが分断され、違うものが一緒になり苦しんでいる、それを思い出して泣いたということなんです。

そんなこと日本では一度も考えたことがなかったんですけども、そうした自分の浅さに「はっ」とさせられた経験を何度もして、それは留学しなかったら絶対得られなかったなと思います。その後の内閣府、文科省、つくば市でも、一歩引いて、自分の立場以外の人だったらどうか、どうやってその人たちに役に立つのか、ということを考える癖がついたかなと思います。

また勉強した中身で言うと、人間らしい行動原理を考慮する「行動経済学」はまさに市役所の業務で使っています。例えば、どうやったら市民の方に、国勢調査の回答を紙ではなくオンラインでしてもらえるか、という工夫をしていますし、行動経済学(ナッジ)の活用やEBPMをもっと進めるため、つくば市で「ナッジ研究会」や「統計・データ利活用推進室」を立ち上げました。

国レベルでも、政府の「ナッジ倫理委員会」の委員長もさせていただいて、ナッジを政策に使っていくときの倫理的な配慮について検討し、「ナッジ・行動インサイト ガイドブック」という本もまとめました。

また、メディカルスクールで学んだ生命倫理も役立っています。つくば市では先端技術を活用した「スマートシティ」化を進める取組をしているのですが、例えば防犯カメラを導入したときに映りたくない人への配慮をどうしたらよいか、などの課題が随所に出てくるわけです。つくば市ではそういったことをちゃんと配慮しますよ、という「つくばスマートシティ倫理原則」を作りましたが、ここでも学びを活かしています。

最後にネットワークの話をすると、これはもう代えがたいです。ケネディスクールで言うと、同級生200人ぐらいが100か国ぐらいから来ているわけですけども、それぞれ国に戻ってみんなすぐ活躍するわけです。同級生6人くらいがもう大臣になっていて、2年ほど前にエクアドルの大統領が来られた時に随行で来ていたのが僕の同級生で外務大臣として来日しました。公務の合間をぬってもらって、普通に居酒屋でSakeで乾杯しながら、日本と南米諸国の関係について本音トークしたのは良い思い出です。

こういったネットワークは他で得難いものがあり、同級生とは今もSNSのグループがあり、そこで100人以上とつながっているのですが、米国大統領選の予想で盛り上がったり、イスラエル人とパレスチナ人が愛のある論争を繰り広げたりと、日本にいながら国際社会を感じられています。

ー梶原 留学では、大学院の内外で皆さん得難い学びや経験をされて、日本に帰国した後もそれが活かされているということですね。入省後の留学を考えている学生さんだけでなく、留学に行きたい若手職員にも大変参考になる話だと思います。

さて、これ以降は、出向や転職を通じて感じ、学んだことや、「中」や「外」から見た文科省について、深堀りして聞いていきたいと思います。


――以下、次回に続く――

ここまでお読みいただいてありがとうございます。
長い記事でしたが、いかがだったでしょうか。

総合職技術系の職員が、それぞれの思いをもって入省し、若手の頃から社会にインパクトを与える仕事に携わったこと、そして留学の機会をそれぞれの更なる成長や今の仕事につなげていったことをお伝えできたでしょうか。

後編は、それぞれが出向や転職を通じて学んだことや、文科省への今の率直な思いなど、より深く切り込んだ内容になっています。是非ごらんください。

後編はこちら→→→「中の人」「外にいる人」「転職した人」から見る、文科省の良さと課題